日銀ETF買いを測った3本の研究
手口データを見ても、日本銀行という参加者名は出てきません。では、相場で繰り返し語られる日銀のETF買い入れは、研究では何を材料に、どのような効果として測られてきたのでしょうか。査読誌に掲載された3本について、標本、方法、推定値、それぞれの限界を分けて確認します。
手口に現れない日銀
このサイトが日々掲載している「手口」は、JPXが公表する参加者別取引高です。ここには日本銀行という名前は現れません。また、公表値そのものには売り建てか買い建てかの区別もありません。
そのため、手口データから「日銀がこの参加者を通じてどれだけETFを買った」と直接たどることはできません。手口で観察しているのは参加者別の取引高であり、日銀ETF買い入れ研究で観察している対象とはデータの設計が異なります。
この区別は、研究結果を手口へ持ち込む前に押さえておく必要があります。日銀ETF買い入れを扱った研究は、参加者別取引高の数字から売買主体を推定するのではなく、買い入れが行われた日、市場の価格変化、指数への採用状況、企業業績などを使って政策との関係を測っています。
つまり、同じ日本株市場を扱っていても、手口データと日銀ETF研究は「何を観察しているか」が違います。このサイトで日々の手口を見る場合も、研究ページを読む場合も、まずデータの単位を混ぜないことが出発点になります。
買い入れ日の午後
Kimie Harada、Tatsuyoshi Okimotoによる2021年の研究「The BOJ's ETF Purchases and Its Effects on Nikkei 225 Stocks」は、日本市場の2010〜2018年の日次データを使い、日経225採用銘柄と非採用銘柄を比較しました。
特徴は、買い入れ日の株価変化をそのまま日銀ETF買いの効果と置かなかったことです。研究では差の差法を使い、さらに午前と午後のリターンを分けています。差の差法は、政策の対象となる側と比較対象の変化の差を使って効果を推定する方法です。
結果として、買い入れ日の午後には、日経225採用株のリターンが非採用株より有意に高いことが示されました。一方、購入額が増えても、その効果は時間とともに低下したと報告されています。
押さえておきたいのは、「日銀が買った日に日経225全体が上昇した」という単純な集計ではない点です。日経225採用株と非採用株を比較し、さらに午前と午後を分けることで、買い入れと対応する価格変化を切り出そうとしています。
ただし、その推定は政策局面と比較群についての仮定に依存します。どの銘柄を比較対象として置くか、買い入れが無かった場合にどのような値動きになったと考えるかが、結果を解釈する際の前提になります。
約20%の中身
この研究で特に目を引く数字が「約20%」です。反実仮想シミュレーションでは、2017年10月までの累積効果が約20%と推定されました。
反実仮想とは、実際には観察できない「もし買い入れが無かったら」という状態をモデル上で置くことです。研究では、その仮想的な経路と実際のデータを比較することで、日銀ETF買い入れによる累積的な影響を推定しています。
したがって、この約20%は、ある買い入れ日に観察された単日の上昇率ではありません。2017年10月までを対象に、研究の設計と仮定の下で積み上げられた反実仮想上の推定値です。
また、この数字を「買い入れ日を事前に把握すれば同程度の収益を得られた」と置き換えることもできません。研究が測っているのは政策の価格効果であり、売買費用を差し引いた投資成績は検証対象に含まれていません。
約20%という数字だけを抜き出すと、観察されたリターンなのか、政策効果の推定なのか、その境界が消えます。この研究を確認するときは、数字とともに「反実仮想による2017年10月までの累積推定」という条件まで一体で扱う必要があります。
企業業績への効果
Hiroshi Gunji、Kazuki Miura、Yuan Yuanによる2023年の研究「The Effect of the Bank of Japan's Exchange-Traded Fund Purchases on Firm Performance」は、株価ではなく企業側の変化を調べています。
標本は日本市場の2010〜2020年の年次データで、TOPIXと日経225の構成企業によるパネルです。研究では差の差法に加え、傾向スコアを使った比較も行いました。傾向スコアは、観察できる企業属性が似た対象同士を比較しやすくするための方法です。
結果として、ETF買い入れはROA、つまり総資産利益率を、TOPIX企業で0.2〜1.5%、日経225企業で0.8〜1.8%低下させたと報告されています。研究では投資や企業統治についても検討し、傾向スコアを使った分析でも主要な結果を確認しています。
研究1が買い入れ日の価格反応を日次で測ったのに対し、研究2は企業パネルを年次で追っています。同じETF買い入れを扱っていても、研究対象も時間単位もアウトカムも異なります。
また、政策対象となる企業は無作為に選ばれた集団ではなく、指数構成企業と比較企業には元から違いが存在する可能性があります。この研究の推定結果から、日銀の買い入れが全企業の収益性を同じ方向へ動かすとまで一般化することはできません。
市場効率性への影響
Ailie Charteris、Conrad Alexander Steynによる2023年の研究「The Bank of Japan's Exchange Traded Fund Purchases: A Help or Hindrance to Market Efficiency?」は、企業のリターンや業績ではなく、市場価格の効率性を対象にしています。
標本は日本市場の2010〜2021年の日次データで、TOPIXと日経225という指数そのものを分析しています。用いられたのはHurst指数と価格遅延です。Hurst指数では、過去の値動きの影響が長く残る長期依存性を測り、価格遅延では新しい情報が価格へ反映されるまでの遅さを測ります。構造変化点の検定も行っています。
分析では、買い入れの増加が両指数の長期依存性を低める方向が示されました。一方で価格遅延への効果は、指数と使用する尺度によって一致していません。
さらに時期を分けると、悪化、改善、再悪化という変化が支配的でした。したがって、研究結果を一方向の効率改善として要約すると、分析の一部を落としてしまいます。
この研究も観察研究です。日銀ETF買い入れと同時期に存在するほかの政策や市場環境を完全に除去した実験ではありません。また、分析対象は指数であり、この結果から個別銘柄についての売買判断を導く設計にもなっていません。
3研究の空白
3本を並べると、日銀ETF買い入れについて多面的な結果が得られていることは分かります。研究1は買い入れ日の午後における日経225採用株の相対的なリターン、研究2は指数構成企業のROAなど企業側の変化、研究3は指数の長期依存性や価格遅延を測っています。
ただし、これらは同じ問いを異なる方法で3回検証した研究ではありません。標本期間、日次と年次という時間単位、対象となる銘柄や企業、測定する結果変数が違います。
このサイトの研究台帳では、3本について独立した別標本による追試は未評価です。そのため、3本あるという数そのものは、再現性の確認回数ではありません。
さらに3本とも、売買費用を差し引いた後の投資成績を検証していません。政策による価格への影響が推定されたことと、その情報を利用する投資戦略の成績が検証されたことは別の論点です。
研究1の価格反応、研究2の企業業績、研究3の市場効率性を足し合わせても、「日銀ETF買い入れは市場に対して最終的にこう作用した」という単一の数字や結論にはなりません。各研究が答えた問いの範囲を保ったまま読む必要があります。
研究ページと用語
日銀ETF買い入れを調べるときは、まず研究ごとの標本と測定対象を確認すると整理しやすくなります。同じ政策についての研究でも、株価、企業業績、市場効率性では、観察している現象が異なるためです。
また、このサイトの日々の手口データと研究結果を同じ画面で確認する場合には、手口がJPXの参加者別取引高であり、その公表値には売り建てと買い建ての区別が無いという前提も押さえておく必要があります。手口の数字から日銀ETF買い入れ研究の推定値を直接再現できるデータ構造ではありません。
本記事は研究の紹介であり、売買推奨や投資助言ではありません。研究結果と日々の手口データを直接結び付けた判断を示すものでもありません。
研究ページ — Gunji・Miura・Yuan(2023年)
出典一覧
- Harada & Okimoto, The BOJ's ETF Purchases and Its Effects on Nikkei 225 Stocks (International Review of Financial Analysis, 2021) — 日本市場2010〜2018年の日次データ、日経225採用・非採用銘柄の差の差法。
- Gunji, Miura & Yuan, The Effect of the Bank of Japan's Exchange-Traded Fund Purchases on Firm Performance (Asian Economic Journal, 2023) — 日本市場2010〜2020年の年次データ、TOPIX・日経225構成企業のパネル分析。
- Charteris & Steyn, The Bank of Japan's Exchange Traded Fund Purchases: A Help or Hindrance to Market Efficiency? (Journal of Asset Management, 2023) — 日本市場2010〜2021年の日次指数、Hurst指数と価格遅延による市場効率の分析。